「くらしの窓」連載【日本民家園を行く】
【日本民家園を行く】第22回・蚕影山祠堂
旧伊藤家住宅のわきに建つ小さなお堂、「蚕影山祠堂」。何と読むのか、どこで区切るのか?「これはコカゲサンシドウと読みます。祠堂とはお堂、ほこらのことですから、区切りはコカゲサン・シドウです」と、同園職員の安田徹也さんに教えてもらった。「蚕影山の祠堂」と書いている書物もあり、この方が分かりやすい。
内部の宮殿(クウデン)とそれを覆う覆堂(サヤドウ)からなり、覆堂は幅2・7メートル、奥行き4・6メートル。川崎市の重要歴史記念物に指定されている。宮殿の裏に「文久三(1863)年十月二十三日」という墨書の棟札が打ち付けてあり、幕末期に作られたことが分かる。もとは麻生区岡上の東光院の境内にあったものを移築したのだが、東光院の山号は岡上山だ。では蚕影山とは何だろう。
それは蚕影山大権現という養蚕の神様のことだという。養蚕は江戸時代から昭和にかけて、川崎市北部も含め神奈川県で広く行われていた産業だ。各地の養蚕業者たちは講と呼ばれる組合を作り、蚕影山を祀った。だから蚕影山を祀るほこらや神社は各地にあった。岡上の蚕影山祠堂も、そうした講によって建てられたものだった。棟札には、「当村講中」として40人ほどの名前が列挙されている。
宮殿は神社のミニチュアといった感じの非常に精緻な造りで、岡上の養蚕業者がこの祠堂にいかに力を注いだかうかがえる。当時、開国したばかりの日本では生糸が輸出品として大量に生産されており、養蚕業者たちはかなり潤っていたため、豪華な宮殿を造る余裕があったのだという。小さなほこらひとつにも歴史が反映されている。
養蚕産業が衰退した後もそうした講は残った。しかし養蚕がすたれた後は蚕影山を信仰する人もなくなり、祠堂は民家園に移築されることになった。「移築する際も、東光院の住職だけでなく講の人たち全員に許可を取り、お別れの法要を行ってから解体、移築しました」(安田さん)。
宮殿の高さは2・2メートル。「これより大きなサイズだと宮大工の仕事になるが、これより小さなサイズだと指物大工の仕事になります。ではこの宮殿はどちらが作ったのか?」(安田さん)という研究者泣かせのサイズなのだそうだ。下方の四面には精巧な透かし彫りが飾られているが、これは日本の養蚕起源説話である「金色姫」の伝説の場面を題材にしたもので、北インドの姫だった金色姫が受けた4度の苦難を現している。金色姫はその後日本にたどり着き、馬妙菩薩の化身として養蚕を伝えたという。
(「くらしの窓」2010年3月14日号掲載)
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