「くらしの窓」連載【日本民家園を行く】
【日本民家園を行く】第11回・旧作田家住宅
日本民家園はいくつかの古民家をグループとしてまとめ「宿場」「信越の村」「関東の村」などと分類して配置している。合掌造り住宅があった「信越の村」を過ぎると、次は「関東の村」。その1軒目が旧作田家だ。幅約20・5メートル、奥行約11・5メートル、平面積約253平方メートル。国指定重要文化財。
作田家は千葉県九十九里浜の漁師の網元の家だった。大地主で村の名主も兼ね、村の名前自体が「作田村」といったそうだから、相当な名家だったことが想像される。漁師の家といっても旧作田家は海岸から2キロ近くも離れた場所に建っていて、海岸には漁具小屋だけを建てていた。
旧作田家の最大の特徴は屋根にある。分棟式といって、1軒の建物なのに屋根だけは2軒の家のように分かれている。旧作田家の場合は母屋部分と土間部分で分かれているのだが、全国的に見ても非常に珍しく、また古い時代の様式なのだそうだ。母屋部分は17世紀後半、土間部分は18世紀後半の建築だという。普通なら、増築した場合でも屋根は一つにつなげてしまうものだ。実際、旧作田家も後の時代の改築・増築の際に屋根は一つにつなげられてしまっていた。屋根の部材になっている柱を調べて初めてもともとは分棟式だったことが分かった。
なぜこのような造りに?「それが、よく分かっていないんです」と語るのは同園職員の安田徹也さん。「これは30年来の議論が続いていまして、軽々しくこうですと言ったら怒られてしまいます」。大まかに言って「古い時代には大きな屋根を作る建築技術が発達していなかったから」という説と「かまどの部分と住まいの部分を分離する民俗学的な考えから」という説があるらしい。
こうした分棟式の建物は茨城県南部や千葉県、静岡県に愛知県、沖縄県などにみられるという。不思議な分布だ。太平洋沿いに『黒潮文化圏』とでもいうような文化の広がりがあったのでは、と想像したくなるが、実はこうした分棟式の民家は海のない栃木県にもあったというのだ。「現物は残っていないのですが、文献などから栃木県にかつて分棟式の建物があったことは分かっています」。すると、海沿いに様式が伝わったという考えも揺らいでくる。結局、謎は深まるばかりだ。
中に入ると、さすがは名主で網元の家なだけはある。来客用のザシキやオクザシキ、風呂や厠もある立派な造りだ。だが、これまで見てきたように、身分制度の厳しかった江戸時代には家の造りも格式に合わせなければならなかった。作田家といえども例外ではなく、例えば土間などに天井を作ることは出来なかった。そこで富を誇示するために、作田家ではわざと曲がりくねった柱を梁に使い、柱が互い違いに交差するように組み上げている。「当然ながら、真っすぐな柱を使ったほうが造り方としては簡単なんです。でもわざわざこういう材木を使って複雑な作り方をしたのは、それだけ富と技術を誇るという意味があったのでしょう」(安田さん)。
(「くらしの窓」2007年9月9日号掲載)
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