「メディ・あさお」掲載記事

【特集】麻生区の今と昔を紹介「あさおライブラリ」
1.まぼろしの「雲雀ケ丘」? 百合ケ丘駅開業秘話

麻生区百合丘。1961年に、高石の一部と万福寺の一部を合わせて、新しくできた地名です。
新しい地名ができたきっかけは一帯に団地の開発(百合ケ丘団地=現サンラフレ百合ケ丘)が行われ、1960年3月25日に小田急が新駅=百合ケ丘駅を開設したこと。「くらしの窓」では1956年の開発開始から地主たちとの土地交渉と団地の建設を毎号のように刻々と紹介していますが、百合丘という地名ができるまでは周辺の開発は「高石の開発」と呼ばれ、団地も「生田団地」と呼ばれていました。
ところが「くらしの窓」53号(1959年8月25日発行)の「小田急新駅四月迄に完成」という記事では、「駅名は『百合ケ丘』『多摩丘陵』『雲雀ケ丘』などが候補に上がっている」とあるではありませんか。
もし駅名や団地名が「雲雀ケ丘」だったとしたら、新百合ケ丘駅もやはり「新雲雀ケ丘駅」で、シンユリではなく「シンヒバ」などと呼ばれていた、のでしょうか……?
しかし「くらしの窓」の記事以外、当時の日本住宅公団や小田急の資料を見ても「百合ケ丘」以外の駅名候補の話は出てきません。百合丘という名前はどのようにして決まったのか、調べてみました。

▼「百合ケ丘」の名はこうして決まった
1963年3月に地元の住民が土地整理審議委員会を結成した際には、駅名は「高石台」が望ましい、とされていました。またそのころ住民たちは新しい団地を「高石団地」と呼んでいたようです(もちろん、現在の市営高石団地とは別物)。しかし「せっかくだから新しい名前を付けよう」ということになり、協議の結果「百合ケ丘」という団地名がまず決まりました。
次に団地名をもとに命名された百合ケ丘駅が開業し、それから団地の入居が始まり、最後に行政上の地名「百合丘」が誕生した、というのが話の流れ。
「雲雀ケ丘」という名前は団地名を協議していたときに候補のひとつとして挙がっていた名前なのかもしれません。
なお、行政上の地名は「百合ケ丘」から「ケ」を抜いた「百合丘」。「百合ケ丘? 百合丘? どっち?」と多くの人を戸惑わせる「ケ」のありなしですが、川崎市内には高津区の「溝ノ口」と「溝口」のように、同じような例がいくつかあります。
◇「百合ケ丘」命名3つの理由◇
1.周辺の丘陵にヤマユリの花が咲き乱れていた
2.地域の開発に百人の地主が力を合わせた
3.神奈川県の県花がヤマユリ

▼百合ケ丘駅開業のころ
百合ケ丘団地の入居開始とともに駅前に開業したのが百合ケ丘ストア=現在のゆりストア。創業者で駅や団地の誘致にも中心となって活動した笠原博さん(故人)らによって設立され、まさに百合丘とともに歩んできました。博さんの長男でゆりストアの2代目社長を務めた高石在住の笠原勝利さんに、百合ケ丘駅開業のころの思い出を聞きました。
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私は当時は学生で、三軒茶屋に下宿をしていたので、実は刻一刻と開発を見ていた訳ではありません。けれど、今の百合丘の辺りはほとんど山と田んぼだけでしたから、駅ひとつ作るのにはこんなに大規模な開発をしないといけないんだなあと思ったものです。百合ケ丘駅ができるまでは小田急に乗るには西生田駅(現読売ランド前駅)まで歩いていかなければいけなかったので、それに比べたら断然便利になりましたね。
「高石台」とか「多摩丘陵」という名前は聞いたことがないけど、「雲雀ケ丘」は聞いたことがありますよ。そんな名前もいいなあ、なんて話があったのを知っています。だからね、「くらしの窓」さんのこの記事は、誤報じゃないと思いますよ(笑)。名前を決める地主たちの会議に私が出ていた訳ではありませんから、話で聞いた、という程度ですけどね。もし百合ケ丘じゃなくて雲雀ケ丘になっていたら、「百合ケ丘ストア」も当然「雲雀ケ丘ストア」だったでしょうね。
(2017年7月25日号掲載)

【「くらしの窓」とは】
新聞販売店・赤本新聞舗(現・あかもと本舗)創業者の赤本良造が、1955年に購読者サービスの新聞折込として創刊。高度経済成長期の地域の変貌ぶりなど、全国版の新聞では紹介しきれない情報を読者に伝え、地域情報紙のさきがけとなりました。その後、関連会社のくらしの窓新聞社(現・メディスタくらしの窓新聞社)に引き継がれ、2011年まで56年間、1397号を発行。本紙「メディ・あさお」は「くらしの窓 麻生区版」として2001年10月に創刊されました。現在の社長・赤本昌応は三代目にあたります。



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